陸軍大将渡邊錠太郎像(西林寺)

小牧生まれの陸軍大将で二・二六事件で暗殺された渡邊錠太郎の銅像が、銅像が西林寺(小牧四丁目)の本堂前に立っている。

 渡邊は、1874年 小牧市で出生。戒蔵院近にいた和田武士右衛門の長男として生まれたが、19歳で母の生家である岩倉の渡辺家の養子となった。陸軍士官学校、陸軍大学を経て陸軍に入省。出世街道を進んで陸軍大学校長を歴任し、1931年に陸軍大将になり、35年に陸軍はったが、二・二六事件で、杉並区荻窪の自宅にいたところを、未明に反乱軍部隊の襲撃を受け、殺された。

銅像の向かって右側には、「徳川義親閣下題字」という文字が掘られ、左側には松井石根の名前の碑文(昭和14年2月)が掘られている。徳川義親か題字を書いたというのは、少し違和感が拭えない。というのは、渡邊を殺害した陸軍の青年将校による昭和維新に徳川義親は共鳴して深く肩入れしており、二・二六事件の少し前に起きた陸軍内のクーデター未遂事件である三月事件では資金提供まで行っている。徳川義親はいわば渡邊の襲撃者の背後に連なっていたとも考えられなくもないからである。この点は、二・二六事件のハ畏敬等について勉強してみたいと思う。松井岩根は、愛知出身で渡邊とは同郷の陸軍大将であり、公私ともに深い関係にあったのであろう。私の事務所近くの六所社にも、確か松井岩根の名前が彫られた記念碑のようなものがある。南進事件の際、上海派遣軍司令官、中支那方面軍司令官の地位にあり、東京裁判ではA級戦犯として死刑判決を受け、巣鴨拘置所で死刑を執行されたことは周知の通りである。

左側の碑文には、「小牧の郷党の協賛を得て建立」「幼くして知能優れ修学3年で学園を退き奮って家業を助け傍ら刻苦独学 明治27年歩兵下士官候補生、昭和6年陸軍大将」「資性温良剛直明敏」「陸軍大学校を首位にて、卒業し大尉として日露戦役に赴き続いて註欧勤務数次に及ぶ」等とある。